うつらない

母は中華飯店とキャバレーで働いており、父は何の仕事かわからないがロックミュージックを好み、自宅でライブの映像を見ながら友人たちとパーティーをしていた。二人ともよく飲み、笑っていて若い。

 

彼らの写真を撮ったり音声を録ったりしていたのだが、母が途中で名言めいたことを言うので、録るからもう一回言ってくれと頼んで、iPhoneのビデオを起動する。

 

そうやって夢の中のRECボタンは赤く点っていたのだけど、起きてみるとその言葉はすべて「■■■■■■■■■■■■■■■」になっていて、見ていた映像は口パクになってしまい音声が再生できなかった。無声映画

キャバレーに出勤する前の、美しく着飾った露出度の高い若い母が、宵の裏通り、電柱の灯りに薄く白く照らされながら何か言っている。いい声だったという質感は覚えているが内容が全く思い出せない。

 

何もかも写らないし残せない、と起きてから思った。なぜそんなに執着するのかわからないが、とにかく私は父でも母でもないことが寂しかったように思う。かつて彼らの一部だったのに、彼らのことが何一つわからない。欠片のように手に入れた記憶や情報さえ、忘れたくないのに忘れてしまう。夢の中の私は、手を伸ばすほどに取り残され、他者の存在にしがみつこうとしながらまさにそのことによってすべて失くす方向に転げ落ちていた。目覚めた私は考える。そして歩き出すけれど、別に夢と現実に大した差はない。

 

美しい没入

ダンスフロアから束の間の帰還、彼は熱心に昨日観たドラマの話をしていた。私も観たよそのドラマ、と言うと身を乗り出して喜んでいたけど、体を私に向けて話しても私を見てはいず、自分の見たもののことだけ思い出しているのがわかるから、悪気なく明るく、心の扉を閉めたまま人を魅了できる彼が私はやっぱり疎ましい。

 

「ラストシーンめっちゃ泣いてさあ、終わってからもっかい観たの、今度は音を消して」とまだドラマの話を続けている。「そうすると主人公の、聞こえてる世界と一緒になるからめっちゃいい」。聾の青年にためらいなく成りかわるその倫理観の逸脱、思いついて実行するスピードの凶暴さも羨ましい。

 

え、踊ってるときには何も考えてないよ。何か考えてるときは集中出来てなくてうまく踊れてないときだな。あんま考えたことない、たとえば腕で羽を表現してくださいって言われたら、その瞬間腕はもう羽になってるんだよね意味わかる? 光を浴びるとき、僕は光そのものになりたいし。べつに人間じゃなくていい。

 

素朴にストイックに、音をつかまえてどこまでも駆けるあなたを見張る役を仰せつかった私のため息、聞こえないでしょう。待っている間の私の怯えに、彼が気づくはずもない。彼について思うことは大抵、「う」で始まって「い」で終わる。残酷なあなたは美しい。

ダンスフロアのかぐや姫

「暗」にも「闇」にも音があってやさしい
音楽の根であり寝床、ゆりかごかもしれない場所

だからあの子は目を瞑って音に泳ぐのね
まるで生死の果てに帰っていくみたいな安心しきった顔で

瞬きの間に彼女が体ごと消えるんじゃないかと
きりきりと気を張って見ているせいで
私のコンタクトはいつも乾いて砕けそうになる

 

”音楽は世界を上書きし、規則の次元をアップデートして我々を移送する”

 

どうせならてっぺんのいちばんいい時に全てぶち壊して帰りやがれ
天井を突き破って風穴そのものになって、びゅうびゅう向こうへ
さびしいと思うのになぜか少しだけそれを期待している
あまりに流れにも光にもきれいに溶けこむものだから
いつかほんとに音になってしまうのだと

その瞬間を見つける私でありたいと思っている
割れたレンズが網膜を傷つけて、私の最後の風景を閉じきってくれたら
はじめて音になる方法を見つけだすのかもしれない

 

 

一生涯でいちばんいい時代

灯りのない方が、考え事には意外と向いてる。ここは暗闇でしかない、と思う時にいちばん思考の癖が出る。ついでにあなたの夢にも出てしまって人生が面倒に交差する。自分より下と思える相手じゃなきゃ馴れ合えないし、どの居場所もひどく所帯じみて醤油とみりんで野菜を炊く匂いで満ちている。強い光からは逃げ出して、すぐ離れないと俺は死ぬ。でもそこから這い上がれると思ってる。ここは底じゃないと思ってる。俺みたいにはなるなよなるんじゃないぞ、忘れたころに思い出させてやるから今は忘れてお前もくたばれ。俺の世界は偶然にもいまだにあなたの世界のままで、いちいち再 / 起動かけなくたって常に同期されてんだ、設定の外し方がわかんなくて、これはサポートが切れるのを待つしかないな。本来こんな作業は成功すべきじゃなかったんだ。さもなければ俺たちは、本当に重なり合ってしまうって、何で危ないと思わなかった? 少し緩くなった指輪を回しながら、いつだかあいつが上の空で唱えていた呪文、「形ある愛は凡人に与えられた唯一の幻想」ってやつ、誰のこと言っていたのか今更わかんなくって、苦笑いもできない。

 

 

みたいの

自分の中に神や国を見つけられなかったひとたちが
考えるのをやめてつくった呪文がある
起動するとぼくみたいのができる
ぼくみたいの、は群生する

水平線を横並びに座ったまま見ている
|昔は「おりじなる」っていうのがあって
|意味がないのに歌ったり
|ひたすら踊ったり
|ぜんぜんちがう言葉同士で伝えたりしてたんだって
|みんないっしょじゃなかったんだって

それはすごいね、と応答する
たくさんのぼくたちは相互の思考を雲に投げて
つねに同期しながら進むので
返答は誤差修正を通知するトリガーでしかない
「きょうかん」という概念があったらしいけど
それはぼくたちのやり方といったい何が違うんだろう

ぼくがぼくみたいじゃないものと一緒にいることを理解できないし
ぼくみたいなもの以外に会ったり喋ったりすることがよくわからない
それはきっと最初の呪文を編み直すことと似てるはずだ
そんなことをしたら機能しなくなって
ぼくみたいのはもうできなくなるかも

ちなみに水平線は昔「むこうがわ」って意味だった
ここは四角く囲われているから
今は単に箱の一辺の壁の立ち上がりのこと
時々考えてみる
あの下線を破いたら
壁が「むこうがわ」になるのかもしれなくて見てみたい
ぼくはその言葉の意味がわからないから
適切な方法が導けているかは確信がないけど

ラッキーカラー

毎日、ラッキーカラーを取り入れる。ヘアアクセサリーからカーディガン、アイシャドウ、靴に至るまで、その色を手持ちで揃えることができるよう、朝のテレビ番組とブックマークしたウェブの占いをまわって調べ尽くす。今日はエメラルド色に光るグリーンだって、素敵じゃない? でも私、グリーンのバッグを持っていない。揃わないからやり直し。気に入るまでラッキーカラーを選ぶ行為は、もはや与えられた幸運ではなく魔除けじみた逃避だ。

彼女はじゅうぶん美しいのに、年のせいで肌の黒ずみが目立つし、そのわりに腕だけが白すぎて、まるで水死体のように見えることを気にしている。多くの寂しげな人間がそうであるように、彼女は何かを美しいと感じることに確信が持てない。自分も他人も造形物も風景も、言葉も体もおこないも、目に映るすべてをどう感じるか、それを信頼してもいいのかわからない。

いつもお綺麗ね、お色味がお顔に映えて似合ってらっしゃるわ。そう言われたときは、困惑しながら、指先までめぐる温かさを噛みしめる。ありがとう、嬉しいです。でもこれはラッキーカラーのおかげだと、わかっているからやめられない。

致死量に至らない自己愛

ロックンローラーは甘い物好きで
バナナとベーコンとピーナッツバターを挟んで
ホットサンドにして日々食べて
ぶくぶく太ってそれで死んだ
というのは噂

 

好きなものを好きなだけ
何も悪いことをしていない
それでも体はいのちを裁くから
いちばんカロリーが少なそうなものだけを抜いて
死に向かう速度を落とす
大して変わらないとしてもいくらかましにはなるだろう

 

適切な構成でそれを食えない
呼ばれるような名前で成立しない
不足と言えるほどには欠けず
ほとんど甘いままで濁す
臆しながら毒を入れる
顔に日々石油を塗りつけるのと同じに

 

挟まれ損ねた果物は台所で
吊られたまま黒ずんで
やがてずるりと落ちる
はだけた肌に仮に白さがあっても手遅れ
いつも気付いた頃には間に合っていない
重力に負けた身を眺めるだけ

 

今日もまともな食事をしていない