As long as we both shall live

四本足の私、かつては二本足の息子より遥かに若くって、息子っていうか同じ家の末っ子長男、少なくともわたしの記憶の始まりにおいては小さな息子だった、はずだのにいつしか年子の弟のようなわずかな年の差に、やがて同世代の若者になって、受験や浪人、苦しむあなたのひざの上で一緒に参考書を読むのが楽しかったのがあなたとの一番の思い出。

私は言葉が話せなかったから、いつも最高の笑顔で伝えてきたつもりだけど、私が一生で一番愛したのはママでもパパでもなくあなたです。あなたがある日家を出てしまって、そうか、ずっと一緒に暮らせるものと思っていたけれどそれは大それた夢だった、と気づいてあきらめた。犬として、あなたを生涯恋い慕う、と決めて生きてきた。あなたが素晴らしい二本足のお嬢さんと結婚してくれたとき、私とても嬉しかった。私はあなたよりずっと早く死んでしまうから、お嬢さんにあなたのことを頼みますって、あなたがたの言葉で言えたらどんなにいいかしら。あなたとお嬢さんが連れだってやってきて家族みんなの時間を過ごしたあと、帰ってしまうと私いつもとっても寂しいわ。

そんな私も年老いて、ときどき不整脈、いつ心臓が止まってもおかしくない命。だいじょうぶ、私の幸せなんて願わないでね。あなたと過ごす時間以上の幸せはなかったんだから。いつだって、今が最後で構わない。短く早く過ぎる人生、ずっとずっとあなたを愛してた。私がいなくなったあとでも、あなたはみんなから愛され続ける運命よ。あなただけを見てきた私が言うから、本当よ。あなたは私の幸せな息子、弟、永遠の恋人。私たち、生き続けるかぎり。死が私とあなたを分かつまで。

 

心を折るくらいでは細い骨さえ砕けず、
気づけば勝手に生きている。
体が揺らぐと重力に合わせてステップが始まる、
私たちは転ばないように踊るすべを覚えた。
三拍子を二本の足でさばけるのが不思議だ。

いつも少しだけ余計であることが永遠へ続き、至らないでいれば十全に夢見ていられるからどこまでも継ぎ足してしまう。

心技体

好きだった菓子も律して食べないようにしているうちに、不思議と好きではなくなった。均質な甘さより筋質の厳しさを選び取っていった結果、身体は強く、堅く頑なに成り果てた。いつも今日が人生最後であっていいように、今日が人生最後の日であるかのように、ただしあたかもこれから永遠に生きるかのように、振る舞っていたかった。

「遠くに行けないなら今ここで高く跳べ」、かつて自分に言い聞かせた言葉は今でも新鮮だ、思い出せた、忘れていなくてよかった、いや思い出すってことは今まで忘れていたってことだからそれってどうなんだろう、でも書き残しておけば読み返して目に触れたとき、必ず意味が像を結んでよみがえる。だからどんなこともやっぱり書いて書いて、書いていくしかない。心が折れたら体もじきに折れる。知らなかったけどそれだけ「心」と「体」を、連結してまっすぐ生きていられたっていうこと、かもしれない、「技」がちょっと足りなくて、三角のバランスが崩れただけ。それを受け入れて、折れたら折れたで、だって折れるまでは生き抜いたんだからいいじゃない、って、ほんとは誰かが言ってくれたらよかった。

take/off

バラバラになってからからの白い体を、箸で拾い上げて壺に積み入れる。きみはどこを切っても同じ顔が出てくる飴に似てた。まっすぐに練られていてどこまでも均質であまくて。だからこんなに複雑で繊細な形をしていたことにちょっと驚いてしまった。
きっとみんな平等にきみを享受したし、そのことはきみのよすがだったろう。ひとりずつの口のなかですぐにほどけてしまうようなやさしさばっかり。もっと泣けばよかったのに。

かつての雨の日、神宮前のカフェから窓の外を垣間見ながら待って、傘がないというから結局は迎えに行くことになった。
どんよりとした空の下なのに、きみはうれしさを体中にまとって、今にも歌い出しそうに小さく跳ねて歩く。スローなぶつぎりの再生で、僕の頭の中で映写されているきみ。そのころはまだ平らな笑い方なんかしてなかった。

世界中の菓子を再現して提供していたそのカフェは、行く度に旅しているみたいで気に入っていたけれど、しばらく行かないうちになくなってしまった。搭乗口を見失って、なんだかもう飛び立てずにこの場所にずっと閉じ込められてしまったような気持ち。実際今はとにかくひどい時代で、どこへ行くにも通行証が要るしそもそも遠くには行けない。顔を隠すように覆ったまま、配慮を交わしながら憎しみまで隠しあって、毎日どこかの端をめくればいつでもちゃんと地獄がある。距離の適切さまで見張られているような時間に、きみの体を生きるべきじゃなかった。だから正しい選択だった、少なくとも僕はそう思う。

飛行場で離陸していくのを見やりながら手を振るように、煙を見つめていたことを思い出す。
どこにも着かないで、ずっとずっと遠くまで行けるのが少し羨ましかった。

ミックスキャンディ・トーキョー

中野のあの店はまだあるだろうか、と急に思った。生まれてこの方東京から出たことのない私が、再びそう遠くないエリアに引っ越してきて一年半が経つくせに、中野には滅多に行かない。用がなかったら行かないし、用が出来るような町でもない。そういう町は幾つかあって、なんでそうなっちゃったんだろうと思いながらも、それが人の思い出と町が繋がっているということなんだから仕方ない。

「好きで好きでかなわなくてもそれがどんなに辛く悲しくても、好きでいることの喜びは残るのです」と彼女は何かの著書で言っていた。著書を出して有名になるより何年か前、私たちはちょっとだけ親しくなって、中野の小さなイタリアンで昼食を一緒に取った。シチリア風の内装の、濃いブルーの壁紙だかコーヒーカップが印象深い店で、その時の彼女は今の私より5歳くらいは若く、私も今より11歳くらい若かった。彼女はとてつもなく「東京」に憧れており、「東京」の女子になりたいという爆発しそうな欲望と自意識を隠し持っていたらしいが、そういう感情を読み取るのはあの頃の私には(今の私にも、なのだが)あまりにも難しく、彼女は私の前でいたって平然を装っているように見えた。もしかしたら、彼女の「東京」へのコンプレックスをべったり感じ取るほどにこちらのセンサーが下世話でないことがかえって彼女にはよかったのかも知れなかった。デザートが終わってから彼女は、案内したいお菓子屋さんが近くにあるから行きましょう、と言ってスマートに席を立った。

一緒に行ったのは、甘い匂いに満ちたキャンディ工房で、そこでお揃いの小さな瓶詰めのフルーツミックスキャンディのアソートを買った。このお店はね、日本に上陸したばかりでね、と嬉しそうに言う彼女は帰り際「きっとあなたに似合うと思って」と言ってプラスチックの大玉パールに花びらのついたピアスを私にくれた。今もジュエリーボックスの奥にしまってある。

私と会わなくなってから、彼女はやたらと「東京」での「パーティ」に明け暮れて、SNSを開けばホテルの最上階を借り切ってシャンパンを開け、テキーラでしこたま酔って、そんな自分にも酔っているような写真と文章をアップし続けていて、表参道や銀座のハイブランドで特攻服みたいなハイヒールをたくさん買っては雑誌に載せたりしながら、常にトップギアで疾走するような日々を送っていた。そんな暮らしをしても全然満たされない自分の惨めさを売りにしていて、少しの良い友達はいるみたいだったけど、その友達はみんな彼女と同類の「シティガール・ワナビー」、もしくはもっといわゆる「ステータスの高い」、彼女の劣等感を笑顔で踏みつけにしてもそれを悪いと思うどころか、良かれと思って富裕層の生活圏に招き入れる、そういう人たちばっかりだった。

加速するあなたの生き様を見ながら、ああいつ死んでもおかしくないなと思っていて、私があなたについて書くときが来るなら、その頃あなたは死んでいるはずだと当時から思ってた。彼女から、長く生き続ける気配と意志を感じたことはなかったから、死なれたのは悲しかったけれど不思議ではなかった。そうそう、あなたが連れて行ってくれたキャンディショップは表参道にもあってね、私は最近までたびたび寄ってはあなたのことを思い出していたんだけど、表参道店も昨年閉店したんだよ。

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あなたはたくさんの感情をやたら煮詰めては甘くしていたが、それを掬って塗りたくったり差し出したりはしないようだった。ただ瓶に詰めて蓋をしてラベルを貼る。かたづける。あなたのやり方が新鮮で、どうも勿体ないようにも思えたけれど、迷いのない手つきには妙に惹かれてよく見ていた。

声をかければ、手を休めず、少しもやり方を歪めずに横顔のままあなたは答える。つやつやと整列していくさまに、あなたはこころから満足しているようだった。甘い香りは順番に閉じられていくばかりで、遂にひとつも私のものにはならなかったので、中身の出来を知るすべはない。

いつかあなたが自分で開けてみることがあるのなら、その香りや味を前にしてどんな顔をするのか見てみたい気がする。その頃には私はもう死んでいると思うが、もし見ることができたなら、私は可笑しくて可愛くてたまらなくなり、きっとたくさん笑うだろう。その笑い声も、そもそも死の知らせもあなたには届いていない。なぜなら私とあなたはずっと私とあなたのままだったし、その遠さは夢が夢であることと同様に当然で、明白かつ侵しようのないものだったからだ。

赤い花束

墓の前だった。目を上げた先はよく晴れた空と緑の丘で、そこにNは立っていた。男がNだということと、彼が真っ赤なカーネーションの花束を持っていると私が認識したのはほぼ同時だった。Nが買う花といえば、カーネーションしかなかったからだ。彼の母は、五月の第二日曜を何よりも大切なものとしており、誕生日は忘れてもいいから母の日だけは、私に花を贈ってねと息子に頼む人だった。私とNは毎年花屋へ連れ立って彼女へカードを書き、ぴったりの日付で花の到着を手配するのが常だった。1日でも遅れては、彼女の希望が叶わないから。

あまりに空が青く抜け、生きる者の香りがしなかったので、すぐにこれは夢だとわかった。それで、Nがカーネーションを持って墓参りに来ているのは彼の母が昨年死んだためであるということも驚かずに受け止められた。流行りの肺炎が悪化して不運なことに昨年亡くなったのだという。私はその知らせを受けなかったから、それで初めて知った。不義理だとは思わなかった。Nとは離婚届を一緒に提出しにゆき、最後の食事をしてから六年間一度も、顔も見ていなければ声も聞いていないのだから。なのにNは明るく笑いかけてくれ、きみもiPhoneに替えたんだね、と私の手元に目ざとく気づいてから、丘の風景写真を撮っていた。大きなカーネーションの花束を、一緒に墓前に供えに行ける資格が私にあるはずもなく、偶然にそして茫然と、少しだけ墓のそばで穏やかな時間を過ごした。

Nの父はジャムで有名なソントン社に勤めていて、もうとっくに定年退職したはずではあるが、スーパーでジャムの陳列棚を見るだけで、一度は義父であったその人の存在が思い出されるので、ソントン社のジャムでトーストを食べることは生涯ない。「父」になるでも「母」になるでもない、いっとき脆弱に結ばれただけの男と女のまま別れてしまった寄る辺ない罪悪感がいまだに自分の中、澱として沈んでいる。

Nがまたこの場所に顔を出すこともあるだろうが、それが実際の、今の、彼ではおそらくまったくない予感が余計、孤独を深く彫り上げてしまう。目覚めてから夢の中の空の青さを噛みしめる。そんな朝もある。